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後藤一乗

後藤一乗

一乗は、寛政三年(一七九一)に、京の後藤家の分家である七郎右衛門家四代の重乗の子として生まれました。兄に是乗光凞、弟に久乗光覧がいます。幼名を次郎といい、のちに八郎兵衛謙乗の養子に迎えられました。文化二年十五歳で家督を継ぎ、八郎丘衛光貨といいました。文化八年(一八一一)、二十一歳のとき名を光行と改め、その後、文政三年(一八二〇)、三十歳のとき、光代と改めました。同七年、三十四歳で法橋に叙せられ、文久三年(一八六三)には法眼となりました。その間、嘉永四年(一八五一)、六十一歳のとき、幕府に召され、十人扶持をうけました。明治九年(一八七六)、八十六歳で没し、京都北野の常徳寺に葬られました。
一乗は後藤家の掉尾を飾る名工で、はじめは、伝統ある後藤家の家彫の世界に生き、家の掟に従って、小柄・笄・目貫などの三所物を主とし、竜・獅子などを主として製作しました。これらは、彼が光行・光代を名のっていたころに多いようです。やがて、家彫の作風を脱して、写生を主としたものに転じました。画題はきわめて豊富で、草花・虫・鳥・風景などがあり、これらを細緻な技法であらわしました。彼は復古大和絵の画家・菊池容斎に下絵を求め、また、画を松本謙斎に学ぶなどしました。作品は、刀装具のすべてにわたり、地金は、金・赤銅・四分一・素銅、あるいは、後藤家で禁止されていた鉄地にまで及び、大いに製作意欲を燃やしました。下地・魚子・仕上げ・色つけなどに細心の注意を払い、また作品を保存する箱にみずから箱書をするなど、一点一点 の作品を実に大切に取り扱いました。
技法は、高彫り・薄肉彫り・毛彫り・色絵・象嵌などの各種で、ことに砂子象嵌をあらわして、装飾性を高めました。晩年の安政・万延ごろには、盛んに鉄地を素材として製作したが、その場合、伯応・凸凹山人などの別号をしるしているが、これは後藤家に対する遠慮からと思われます。
一乗の初期銘である光行銘のものはきわめて少ないが、橋弁慶図二所物は、家彫の伝統を踏まえての力作です。小柄は、五条橋を大きく金で高彫りにし、欄干の擬宝珠には牛若の衣がかけられ、橋の上には、弁慶の七つ道具が捨てられており、弁慶が敗れ去ったところを描いています。目貫はもちろん、牛若・弁慶で、さすがに高彫りにすぐれた象嵌技術を見せており、小品ながら堂々として見えるところは作者の技量です。獅子図三所物・宇治川先陣図三所物は、ともに光代銘で、前者は三十二歳の作です。ともに後藤家に多い図柄であり、若さに溢れた力作です。
聖衆来迎図揃物も、ほぼ同じころに作られたもので、このような図を鐔や小道具の上に表現すべく、一乗が天性の資質に加えるに、三十余歳の若さから溢れ出るエネルギーを傾けて完成したものでしょう。これらは文政五年から八年までの三年もの年月を要しており、その間、光代から一乗に改名し、また文政七年には法橋に叙せられています。
法橋一乗銘は、彼の作品の中では最も多く、この間に数々の名作を生み出しました。浅妻舟図・石橋図、伊勢名所図の各鐔、吉野・竜田図大小揃金具などがあり、三所物では草花虫図が、代表作として知られています。伯応銘のものにも見るべきものがあるが、すべて鉄地に自由な題材をえらび、法橋銘のものとは異なった作風を示しています。白鷺図は、その代表で、撫角形、隅切の鉄地に、切羽台を生かして白鷺の姿を巧みに表現しています。白鷲は銀象嵌で、水の流れも同じく銀象嵌を使い、水草や河骨には赤銅と金とを象嵌するなど見事な構成です。吉野・竜田図揃金具は、七十四歳から七十五歳にかけての晩年の大作です。写生派の一人者である彼が、小さな世界に、大きな風景をとり入れ、得意とした緻密な高彫り色絵であらわしたものです。鐔の下地は赤銅魚子地で、山や川を鋤き出し、波は毛彫りで施し、大の鐔は桜の樹を赤銅、花を銀、葉は金を用い、小の鐔は、楓の樹を赤銅、葉は、金と赤銅を用い、雲には銀の砂子象嵌をあらわすなど華麗なものであり、小柄・笄・目貫も鐔と同じく色金を用いています。
一乗門は数十人にのぼるといわれるが、船田一琴・和田一真・福井一寿・橋本一至・中川一匠が聞えています。

後藤一乗の一門

船田一琴

一乗門下の名工で、文化九年(一八一二)、出羽庄内の鶴岡に生まれました。岩本寛利門の船田寛常の子で、幼名勇太郎、のちに庄助義長といいました。文政九年(一八二六)十五歳の折、江戸に出、熊谷義之に学び、同十一年、一乗門にはいり、のちに江戸に移住しました。酒井家に仕え、三人扶持をたまわりました。作風は師の一乗にならったものが多く、四神図・竜・花卉などの類があります。一乗が得意とした四君子図を、彼も独特の地がねと彫法であらわしており、梅樹や、富士図は、素材に工夫をこらして巧みにあらわしています。彼の特技としては、甲鋤彫りといい、すくいたがね式の彫技をはじめたこと、また下地に蟇肌(がまはだ)と呼ばれる変わった赤銅地を見せるなどしていることです。

荒木東明

東明は、はじめ後藤東乗門、のち一乗に師事しました。画工・林蘭雅と親交がありました。彼の特技といわれる粟穂の彫刻は、蘭雅との共同創作といわれます。たわわに実った粟穂を、写実性豊かにあらわしたものであり、赤銅地、あるいは鉄地の上に金色に映えた粟穂のさまは見事です。

今井永武

永武は、笹屋忠兵衛の子で、のち今井家の養子に迎えられます。享斎と号しました。師風を受け、緻密な花鳥を高彫り色絵にしたものが多いです。

中川一勝(一匠)

一匠は、津山藩主松平家の抱え工であった中川勝継の次男で、五兵衛勝実といい、通称直次郎、はじめ一勝といい、安政四年(一八五七)一乗門にはいり、一匠と改めます。弟の勝義は、岡山の正阿弥家を継ぎ大成しました。

河野春明

春明は、横谷派の流れの柳川直春門で、後藤一乗と時代を同じくして活躍した名工で、田中清寿をはじめ多くの門人がいます。当時、沈滞気味であった金工界に、新風を送ったことは偉とすべきです。江戸本所柳島に住しました。彼の作風は、はじめ柳川派の絵風彫刻を、のち後藤家の作風をならうなどして、遂に春明流と呼ばれる斬新な作風をあらわしました。

田中清寿

清寿は、春明門の名工です。はじめ明義、のち清寿に名を改めました。東竜斎・寿叟法眼・竜法眼などの別号があります。一乗・春明らと同じ法眼に叙せられました。一乗とは、作風が顕著に異なり、幕末金工の中にあっては異色の作家です。多作で、しかも多芸であり、形や透かしに工夫をこらし、また、見事な高彫り象嵌を見せるなど、名人の名にそむかないものがあります。仁王図鐔は、撫角形の鉄地に、仁王を写生風であらわしたもので、素銅の高彫りに、金や赤銅などで象嵌をしており、力強い彫技を示しています。
猿猴釣魚図鐔は彼の独創ともいえる透かし彫りであり、多芸をここでも披露しています。彼の作には「一家式」と銘をきったものが多いが、これは、一家風という意であり、彼の特技を総称する言葉であろうし、自分の技量を誇る言葉とも思われます。

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