Loading

刀剣ブログ

抜丸・大蛇も慄く平家重代の太刀

抜丸(ぬけまる)

本太刀は、平家重代の太刀「抜丸」です。「抜丸」という号は、『平治物語』の「巻之二」には、下記のように記されています。

此太刀を抜丸といふゆへは、故刑部卿忠盛、池殿にひるねしておはしけるに、池より大蛇あがりて、忠盛をのまんとす。此太刀まくらのうへに立たりけるが、みづからするりとぬけて、蛇にかゝりければ、蛇おそれて池にしづむ。太刀もさやにかへりしかば、蛇又出てのまんとす。太刀又ぬけて大蛇を追て、他の汀に立てんげり。忠盛是をみ給てこそ、抜丸とはつけられけれ。当腹の愛子によって、頼盛是を相伝し給ふ故に、清盛と不快なりけるとぞきこえし。伯耆国大原の眞守が作と云々。

平忠盛(清盛の父)が、京都の六波羅池殿で昼寝をしていると、庭の池の中より大蛇が現れ忠盛を呑もうとしました。すると枕元に立て掛けていた太刀が、ひとりでに鞘より抜けて平忠盛を襲おうとしていた大蛇に斬りかかり、大蛇は恐れをなして池へ逃げ帰りましたが、太刀が鞘に納まると大蛇は再び現れ忠盛を呑もうとしたので、太刀は再び鞘から抜けて大蛇を追いかけて、池のほとりに立ちました。平忠盛はこの様子を見てこの太刀を「抜丸」と命名しました。これが号の由来で、抜丸が嫡男の清盛ではなく、正室である池禅尼の子で平清盛の異母弟の頼盛に相伝されたことが二人の確執、不仲の原因だとされ、作者は伯耆大原真守といわれています。
また清盛の子、平宗盛がその後、抜丸を所望したときも頼盛は断っており頼盛と平氏嫡流との不和につながることになります。

抜丸はもとは木枯と号される

抜丸はもとは「木枯」と号され、上記と同じような物語が『平家物語』の異本のひとつ『源平盛衰記』にも記されています。

源平盛衰記(延宝8年版)

源平盛衰記(延宝8年版)

日本の愚猟一振の剣を求て帯ながら山中の獣を得たり。是天照太神の冥恩也と思ければ、昼夜に身を放ず。或夜鹿を待て大なる木の下に宿す。太刀を大木に寄せ立て其夜を明す。朝に此木を見れば、古木の如くして、枝葉皆枯たり。猟師不思議にぞ思ける。月比日比も此木の下を栖とせしか共、さてこそ有しに、夜部までは翠の梢盛にこそ有しに、今夜此太刀を寄懸たる故にや、一夜が内に枯ぬるこそ奇しけれ、是定て神剣ならんとて、木枯とぞ名付たる。其比刑部卿忠盛、伊勢守にて御座けるが夙聞て件の猟師を召、此太刀を見給ふに、異国はそも不知、我朝には難有剣也とて、よに欲思はれければ、栗真庄の年貢三千石に替て取れけり。さてこそ猟師家富身ゆたかにして、弥太神宮の御利生共思知けり。忠盛都に帰上、六波羅の池殿の山庄にて、昼寝して前後も知ず座しけるが、此木枯の太刀を枕に立て置たり。大蛇池より出て口を張、游近付忠盛を呑んとす。木枯鞘よりさと抜て、かばと転び倒るゝ音に驚て、忠盛起直て見給に、剣は抜て鐔を蛇に向たり。蛇は剣に恐て水底に沈にけり。太刀かばと倒るゝは主を驚さんがため、鞘より抜るは主を守て、大蛇を切んが為也けり。其よりして木枯の名を改て抜丸とぞ呼れける。平治の合戦に、頼盛三川守にて、熊手に懸られて討るべかりけるにも、此太刀にて鎖金を打切て遁給けり

伊勢国の鈴鹿山のふもとに住む猟師の男が天照太神のお告げから授けられたこの太刀を大木に立てかけて眠ったところ、一夜のうちに木が枯れており、それを見た男は神剣ならんとて「木枯(こがらし)」と名付けました。後に伊勢守であった刑部卿(刑部省の長官)平忠盛がこの噂を聞きつけ、男から買い取り所持しました。その後、この太刀が『平治物語』で書かれているように池殿で昼寝をしていた忠盛を襲った大蛇を鞘より抜けて主を守ったので「抜丸」と名を改めました、本太刀はその後、三河守となった三河守平頼盛(平忠盛の子で通称池殿・池大納言)に相伝され、平治の乱では抜丸を佩用して奮戦したといいます。小烏丸と並ぶ平家伝来の太刀ですが、現在行方は分かっていません。

太刀の売却・購入をお考えならお気軽にご相談下さい
太刀買取なら鋼月堂へ

宮城の神社・仏閣所蔵の刀剣・奉納刀

重要文化財について

関連記事

  1. 大倶利伽羅広光・相州広光の代表作の一つ

    2017.12.27
  2. 岩融・弁慶の薙刀

    2018.02.10
  3. 桑山保昌五郎・保昌派を代表する名短刀

    2019.08.08
  4. 岡田切吉房・同作中最も華やかな作風を示した作

    2018.09.28
  5. 篭手切江・稲葉家と細川家所縁の刀

    2017.08.22
  6. にっかり青江・京極にすぎたるもの

    2018.03.06
PAGE TOP