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甲冑ブログ

安土・桃山時代以後の具足

当世具足の展開

応仁の乱後、室町幕府の権威は失なわれて武将は地方に割拠してその封地を争い、豊臣秀吉が天下を統一するまで、騒乱の絶え間がなく、その間戦闘は南北朝以来発達した槍の使用によって、徒歩集団戦の傾向を生じ、これに順応して末期的様相を呈していた従来の甲冑に画期的な変革がうながされて、伝統的な在来の甲冑とは全く面目を異にするいわゆる当世具足が出現するに至ったのである。この当世具足は、はつらつとした。当時の因襲打破の時勢をよく反映しており、あくまでも実践的経験に基づいて改変が加えられたのであるが、しかしその構造は右脇に引合わせを設けたものを普通とし、在来の胴丸形態を踏襲したものといいうる。また中には、天文十二年に伝来した火縄銃の盛行、あるいは西欧甲冑の模倣のごときこともあって各種各様の甲冑が出現したのである。とくにいちじるしいのは冑であって、乱軍の中にあって自己の武勇を顕揚せんとするところから、各人各様の形象冑が現われたのである。ようするに当世具足は、戦闘の実践的経験から生まれたものではあるが、その意匠の面においては戦国武士の因襲にとらわれないはつらつとした気風の反映をみることができるのである(当世具足の具体的説明は種類の項と重複するので省略する)。そして、この当世具足の出現の時期は永正・大永頃から元亀・天正の頃を盛期とするが、豊臣氏が天下を統御したあとをうけて徳川幕府を江戸に開き、戦乱ようやくおさまって士風民心ともに安堵した江戸時代においても、戦国時代の当世具足の形制はそのまま受け継がれたのである。すなわち徳川将軍家をはじめ諸侯は、戦国時代の先祖の具足に倣って代々新造し、家名継承のしるしとした。久能山東照宮に徳川将軍代々の甲冑が、江戸城紅葉山御神庫から移されているが、その中に家康所用の御霊夢の御甲と称する大黒頭巾形兜・伊予札縫延胴具足があり、三代家光をはじめ十四代までのそれを模作したものがある。なおその中に、八代将軍吉宗が鎌倉時代の鎧兜を模作させたものが二領ある。これは宝永六年新井白石が「本朝軍器考」を著わし、甲冑においても復古の風が起こって、源平の昔をしのんで式正鎧の制を復原する等の傾向を生じた当時の作例として興味のある遺品である。しかしそれは実用品ではなく一種の装飾品たるに過ぎなかった。なお桃山時代から江戸時代の胴丸具足に、小札や板物の表面に金箔を押したものがある。このような装飾法は桃山時代に流行したもので、新興武士階級の華美を好む、意欲的精神の反映にほかならない。

主な当世具足の遺品

桃山・江戸時代の主なる当世具足としてはつぎのようなものがある。

【桃山時代】
金溜塗二枚胴具足 大高城兵粮入具足 久能山東照宮
南蛮胴具足 德川家康所用 日光東照宮
黒絲素懸威縫延二枚胴具足 德川家康所用 久能山東照宮
金小札紅絲威五枚胴具足 豐臣秀賴所用

【江戸時代】
本小札藍韋威二枚胴具足 德川家光所用 久能山東照宮
本小札縹絲威二枚胴具足 小堀遠州所用 東京国立博物館

金溜塗二枚胴具足 大高城兵粮入具足 久能山東照宮

金溜塗二枚胴具足 大高城兵粮入具足 久能山東照宮

黒絲素懸威縫延二枚胴具足 德川家康所用 久能山東照宮

黒絲素懸威縫延二枚胴具足 德川家康所用 久能山東照宮

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