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刀剣ブログ

岩融・弁慶の薙刀

大薙刀 無銘 伝武蔵坊弁慶奉納

岩融(いわとおし)

大薙刀無銘伝武蔵坊弁慶奉納

大山祇神社 大薙刀 無銘 伝武蔵坊弁慶奉納(出典:大太刀と小道具大山祇神社図録

義経記

出典:寛文10年刊 義経記

三条宗近作と伝わる

本薙刀は、三条宗近が作り、源平期の僧兵で源義経の忠臣として知られる武蔵坊弁慶が所持していたとされている名物「岩融」です。号の由来は、岩でも貫くほどよく切れることからと言われていますが、正直よくわかっていません。というのも、弁慶が「岩融」という薙刀を持っていたという言い伝えはあっても、確かな出典がみつかっていないからです。源義経の活躍を通じて武蔵坊弁慶などの主従の活躍を描いた室町期の軍記物「義経記」には、「岩透と言う刀(或いは太刀)」という記載が三ケ所ありますが、いずれも薙刀とは書かれていません。また、三条宗近に関する記述も「今剣」のところで「三条小鍛冶」という記述が出てくるのみで、弁慶の所持している長刀(薙刀)の作者は全編を通じて一度も出てきません。
以上のことから、いつの頃から「岩透」「長刀」「三条小鍛冶」の三つが読み間違いや本を写す際のミスなどから混合されて「弁慶の持つ三条小鍛冶が作った岩透という長刀」が出来上がったのではないかと思われます。因みに、愛媛県の大山祇神社には弁慶が寄贈したと伝わっている大長刀(重要文化財指定)が所蔵されています。

怪力無双の忠臣・武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶とは、源義経に最後まで付き従った怪力無双の僧兵で、昔から「弁慶に薙刀(鬼に金棒と同義語)」という言葉があるくらい薙刀を持っているイメージが強い人物です。他にも「内弁慶、外地蔵」「弁慶の泣き所」など弁慶に因んだ言葉が複数あります。
弁慶は、鎌倉期の歴史書「吾妻鏡」に名前があることから実在の人物と考えられていますが、「吾妻鏡」には義経の郎党として名前が二度登場するのみで、実際に何をした人物なのかは書かれていません。彼の名とイメージを一般に知らしめたのはやはり前述の戦記物「義経記」です。
熊野別当湛増(『義経記』では「弁せう」)の子として生まれた弁慶は、母の胎内に十八ヶ月おり、生まれた時には二、三歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていました。その為、父に鬼子だからと殺されそうになり、鬼若と命名されて叔母のもとで育てられました。やがて、大きくなった鬼若は比叡山へ入れられますが、勉強もせず暴れてばかりいる為に追い出されたので、自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗るようになります。その後、各地で狼藉を繰り返していましたが、ある時に「奥州の藤原秀衡は名馬千匹、鎧を千領持つという。この弁慶は京で人の太刀を千本の太刀を奪って自分の宝としよう」という誓いを立てます。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった武者と決闘してとうとう九百九十九本まで集めました。あと一本というところで、腰に見事な太刀を佩びた若者が笛を吹きながら通りかかりました。その太刀に目をとめた弁慶は、千本目をかけて挑みかかりますが、攻撃をひらりひらりと交わされ、あえなく返り討ちとなりました。その若者こそ遮那王(後の九郎判官義経)であり、降参した弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐で功名を立てます。その後、兄である源頼朝と対立して窮地に立たされた義経と共に、郎党は逃れ逃れて奥州平泉へとたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せます。しかし、秀衡の死後、子の藤原泰衡は頼朝の圧力に屈して義経郎党を襲い、多数の敵勢を相手に弁慶は愛用の薙刀を振るって孤軍奮闘するも、最後全身に矢を受けて立ったまま絶命(世にいう「弁慶の立往生」)しました。
以上が「義経記」に書かれている弁慶の生涯です。その後、能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」などで主役として取り上げられたことで、その人気は主君義経と共に不動のものとなりました。

岩融の展示情報

岩融の現存は不明ですが、作者と伝わる三条宗近の作品は全国の刀剣展示会で不定期で展示されます。機会があれば是非ご覧になって下さい。
全国の刀剣展示会情報はこちら

刀剣乱舞実装刀剣の展示情報

今剣・義経の愛刀

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